この度は、徳永賞を賜ることとなり、推薦してくださった二葉むさしが学園ならびにご承認くださった法人の皆様には心より感謝いたします。このような晴れがましい誉れをいただくことになりましたことは、私にとって大変思いがけなく、身に余ることです。あっという間の30余年でした。たくさんの仲間や上司の導きで働き続けられたことを心から感謝します。

 自らの専門性を高め深めていく職員の方が多い中、一つのところに落ち着かず、いくつもの職場を経験してきた私は、少し異端な存在かもしれません。ですが、児童福祉制度変革の激動の30年間に、多少なりとも二葉の理念を実践できるように努めてきたつもりです。

 私が考える二葉の理念は、第一に、キリストの愛の精神を土台とするチルドレンファーストです。ただ私の場合、その役割は子どものアドボカシーを念頭に、育む人を支える仕事という形でした。里親支援が社会福祉の入り口だったことが影響していると思っていますが、養育家庭センターから乳児院初の心理相談員になった時も、私の仕事はお子さんを引き取る次の養育者の方と手塩にかけて心血注いで育ててきた担当児の幸福を第一に、次に託していく職員のサポートでした。子どもの幸福を願って、3者の関係がうまくいくと引き取り後も円満だった記憶です。

 乳児院の先生方のお仕事は、子どもたちは記憶力がまだ育っていない場合も多く、身を粉にして愛した担当児とのかかわりは無意識の中に埋もれ、忘れられてしまうことも多い尊い奉仕の働きでした。本当に頭が下がります。ですが最近では子どもへの愛着の継続性を大切にし、アフターケアで次の養育者の方との連携ができるようになってきたと聞いています。幼い頃、どれだけかわいがられたかが子どもの記憶に残ることは自尊感情を育む上で大切なことであり、乳児院で育ったことが誇れるようになってほしいと思います。

 もう一つの二葉の理念は、地域に必要とされている社会的課題を解決する先駆的な取り組みをするということです。事業化に至りませんでしたが、前乳児院院長の故鈴木裕子先生と、新宿区に新しい事業提案をしに行ったことがあるのですが、その際今でいう子ども食堂の提案をしたことがあります。結果却下されたのですが、実は歴史を紐解くと、子ども食堂のような存在を、二葉が約100年前に地域支援で行っていました。二葉85年史や野口幽香先生の生涯の書籍などを持っている方はぜひ読み返していただき、二葉が明治・大正とどんなユニークな活動をしていたか、その活動費を現代ならクラウドファンディングを活用するような感覚で寄付により財源を確保しつつ、子どもが自立した大人になるよういろんな活動をしていたことを知ってほしいのです。

 20年前、二葉は結婚・出産すると退職する方が多く、数少ない育休経験者の私は、乳児院改築時、2階での地域子育て支援センターの立ち上げと責任者を命じられ、軌道に乗せたのち、二葉南元保育園の仕事を任命されました。独学で保育士資格を取ったばかりで保育現場経験もない私は、利用者としての視点、保育園も地域の子供たちを育む大切な親子の拠点たるという考えと、少子化が進んでも持続可能な保育園の運営を自分の使命としました。当時はまだ、保育園に子育て支援の機能や意義は十分には認識されていませんでした。ソーシャルワーカーがいない保育園では、保護者支援も私の業務になりました。当時の保育園業界は、虐待防止と待機児童問題という社会的な課題を、地域貢献として解決せよと突き付けられた時代でした。

 二葉南元保育園は退職者が少なく、同世代が団子状に固まった年齢構成で、皆長く勤務をしてもらえると、20年ぐらいのうちに人件費がひっ迫する可能性がありました。最年少の職員は何年も先輩になれず、組織の硬直化も心配でした。若い世代を採用していかなければなりませんでした。少子化の流れはわかっていたので、定員増しても将来困らないように、ミッションスクールならぬミッション保育園というブランド化をして、千代田区や渋谷区からの越境入園希望者が押し寄せるような保育園を作ろうと半分冗談、半分真面目に当時の主任に話をしたりしていました。

 二葉の法人の理念に、最も困っている子どもに手を差し伸べるというキリストの愛の精神がありますが、虐待防止の機能が重視されつつある中で、この理念はそれを後押しするものでした。そのため南元では仕事をしていなかったり、仕事が休みの保護者も特別に保育を受け入れたり、外国人のお子さんを受け入れたりしましたが、そうした保護者対応は職員に負荷がかかりました。私自身が産休から復帰した頃に時短制度がなかったため、一時非常勤職員になって時短勤務で仕事を続けたという経験があり、力の付いた職員が退職せず育児と仕事の両立を図れるよう育児時短制度取得の推奨をしました。結果、しわ寄せを感じ運営に不満が募る現場もありました。そんな中、新宿区からの要請もあり、南元の組織課題の解決と待機児童解消という地域ニーズに貢献するために、新園舎の改築を手がけました。改築は地域との折衝も大変で法人の駐車場の出入口位置変更の不満などがあると、地域の方から、話し合いの場で手打ちを受けたこともありましたし、仮園舎の移転のごたごたも山盛りでした。

 当時の職員の皆さんには多大なご負担を掛けました。にもかかわらず、子どもたちには変わらぬ愛情でどんな環境でも工夫して保育をし、給食を提供してくださったこと、本当に感謝しています。外から見える南元保育園の保育は生活の一つ一つの組み立てが子どもの成長過程を踏まえ、社会性と思いやり、様々な教育成果が図れる保育でした。給食室も、いろいろな困難がある中安定したおいしい給食を提供してくれたことは、環境変化の真っただ中にいる子どもたちの不安を払うのに一役買ったと思います。ある意味南元の保育をリスペクトしているが故に新園舎で一気に新しい保育をしてみたい職員と、布おむつも乾布摩擦も残したい私との不一致も見えてきました。正職員の皆さんは激動の期間をしのいで耐えてくださいました。しかし私の運営経験と力量の不足から、特に新人職員や非常勤の職員の方の雇用を十分守れなかったことが、今も私の中では一番の悔いになっています。

 南元の改築が成功し、新しい園舎にふさわしい保育を作っていくステージに私があまりにも力不足で不適切でした。そこで一旦二葉を退職という選択肢がありました。悩む中、二葉でまだ経験していない児童養護の世界が残っていました。児童養護の仕事に志願する若い職員の皆さんを尊敬する一方で、自信を失っていた自分に務まる簡単な仕事でないということは分かっていました。そんな私に励まし手を差し伸べてくださったのが、前二葉むさしが丘学園長の黒田先生でした。二葉での最後に児童養護施設での仕事をさせていただけることになりました。想像通り、厳しい経験を持った児童の激しい試し行動を全身で受け止める若い職員の皆さんを目の当たりにし、子どもと戦っている、悩んでいる、疲れている若い人たちの、手の行き届かないところ、手の回らないところをサポートしたい、応援団になりたいと思い、子どもたちの支援が私の仕事になりました。

 黒田先生のお考えの中で一番感銘を受けたのは、入所する子どもを選ばないという方針であり、まさに二葉の理念であるキリストの愛の精神を具現化した方針だと思いました。1年間フリーチームの一員として子どもたちの生活支援や余暇支援を経験した後、家庭支援専門相談員になり、養育家庭支援センター時代に取った社会福祉士の資格が活かせました。子どもを選ばない入所は実際かなり難しかったですが私はあることに気が付きました。第三者から見てこのケースはハードだろうと思われる児童を受け入れる場合があるのですが、よく聞くと、担当したことのある児童とケースが似ているなどすでに経験済みの自信が入所受け入れに影響しているようでした。若い人たちが多様な子どもとの経験をする仕組みの中で力をつけていけるとよいと思いました。

 また、一時保護室ではまさに子どもを選ぶことができません。児童相談所からの情報が少ない中での受け入れだからです。一時保護室の職員からのモニタリングで子どもを受け入れる幅を広げてもらえ、昨年、念願の児童自立支援施設からの措置児童を受け入れることができました。黒田先生の願いでもありました。

 定年が潮時かと退職するつもりでしたが大量退職者が出た年で、残った人たちが疲労するのは目に見えていました。もうひと踏ん張りしようとお願いし、グループホーム支援員として再雇用していただきました。あまり無理せず、若い人たちのために長くいてくださいと施設長の菅原先生に言っていただき、ありがたかったです。

 宿直があり、子どもたちのご飯を作り、生活支援をするグループホーム支援員は私にとって子どもたちを今まで以上に身近に支援ができ、ふたばひろば開設に匹敵する、楽しく充実した仕事になりました。ご飯を作るのが好きな方、食わず嫌いにならず児童養護の世界をのぞいてみませんか?おすすめです。

 話がだんだんまとまらなくなってしまいました。読んでいただきありがとうございました。

 2025.1.18