100年のあゆみ
 二葉保育園は、1900年(明治33)に華族女学校付属幼稚園に勤務していた野口幽香と森島美根によって設立された。二人は貧児にも華族幼稚園の子どもたちと同じ様に保育したいと願い、麹町の借家で6人の子どもたちを集めて開園した。
 創立当時から貧民子女のための慈善幼稚園として歩み始め1906年(明治39)に麹町より四谷鮫河橋(明治の三大貧民窟のひとつ)に移転し、200名以上の児童を入園させ、親へも働きかけ地域の向上に尽くした。
 1916年(大正5)当時、既に乳幼児も頼まれて保育していたので、事業や社会制度の変化に合わせて幼稚園から保育園に名称を変更した。同じ年に内藤新宿南町(後の旭町)に分園を設立した。大正期には乳幼児の死亡率増加に伴い、母性保護が叫ばれ始め、本園には「母の家」を設立、分園でも小学部設置、少年少女クラブなど事業を広げていった。関東大震災により分園は焼失するが、人々の求めに応じて再建された。
 1939年(昭和10)には深川に母の家と保育園を開設した。しかし1945年(昭和20)の東京大空襲下に焼失し、入居者及び職員の犠牲を出すに至った。のみならず本園も焼失し、旭町分園のみ焼け残った。終戦後旭町分園から事業を再開し、1948年(昭和23)の児童福祉法施行により元鮫河橋(南元町)に乳児院、南元町保育園を開設、大正期より少年少女のキャンプ地であった調布上石原に養護施設及び母子寮を開設した。その後旭町の保育園は国領に移転し、現在は四谷に乳児院、保育園、調布に児童養護施設、国領に保育園を開設している。
 1900年(明治33)創立以来、毎年寄付者に「年報」により、事業の報告を行っていた。これらの「年報」はもとより、二葉保育園には「設立趣意書」を始め、創立以来の入園児童の名簿、建物図面、行政への手続きなどの文書が保存されている。こうした資料を後世に伝えるため、資料の整理作業にも着手しており、その完成の後には、長期的視野に立って閲覧などの利用にも応えてまいりたいと、祈りのうちに準備を始めている。
 明治維新により江戸幕府が瓦解し、江戸の町は遷都に伴い東京と改められた。
 明治新政府による近代化政策が推進されるにつれ、東京へ地方からの人口流入が相次いだ。新時代の変革の中にあって、東京市周辺には貧民窟が生まれるなどの社会現象が生じ、とりわけ四谷鮫河橋、芝新網町、下谷万年町は明治の三大スラムと言われる程の状況を呈した。
 これに対し、富国強兵を掲げる明治政府の社会福祉政策は遅れを取り、僅かに1874年(明治7)に恤救規則が制定された程度で歳月が流れ、むしろ個別の慈善事業に対策が委ねられた。また、明治政府の文教政策によって小学校の就学率は年々向上したが、依然として家庭の事情などによる不就学児童があった。
 幼稚園は1876年(明治9)に東京女子師範学校(現 お茶の水女子大学)付属幼稚園が建てられたのが嚆矢であるが、幼稚園の設立が増加し始めたのは1900年前後のことであり、「二葉幼稚園」は、こうした時代の流れの中で産声をあげたのである。
 華族女学校付属幼稚園で勤務していた野口幽香、森島 峰(美根)は、麹町から出勤する途中で貧民の子どもたちが道路で遊んでいるのを見て、華族女学校付属幼稚園の子どもたちだけでなく、この子どもたちにも同じようにフレーベルによる教育を与えたいと語り合った。
 ドイツ人教育指導者のフレーベルは、キンダーガルテン(幼児の庭園→幼稚園)の生みの親として知られ、19世紀前半からその活動を起こし衆目を集めた。彼の幼児教育の理念は、キリスト教信仰に根ざし、神の似姿に創られた人間は元来善であり、人間が持つ神性を就学前の幼児を教育することを通して成長させることにあった。したがって子どもの自立性を重視し、かつ植物など自然に広く接することを積極的に採用した。このフレーベル教育は着実に普及し、日本でも1876年(明治9)に設立された東京女子師範学校付属幼稚園がこれを導入した。
 明治後年、幼児教育者によるフレーベル会も設立されている。さて、野口幽香と森島 峰(美根)の二人は番町教会で宣教師ミス・デントンに相談した所、女史は募金のために慈善音楽会開催に尽力した。
 1898年(明治31)ドイツ人哲学者で音楽家としても知られたケーベル博士によるピアノ演奏の慈善音楽会を上野の奏楽堂で開催し、700円の収益を、本郷育児暁星園とで分けて420円の資金を得る事が出来た。慈善音楽会の通知は当時の著名なキリスト者が名を連ねていた。
 1900年(明治33)に麹町の借家からスタートした二葉幼稚園は、野口幽香、森島 峰(美根)がフレーベル教育を実践するために、フレーベルの理念を基本として、子どもの自主性を尊重し、自然になじむように進められた。森島 峰(美根)は既にアメリカのカリフォルニア州に留学し貧民幼稚園、について学んでいた。教科は当時の幼稚園の基準に基づいて定められているが、子どもたちの置かれた状況を考慮し、家の手伝いをするために役立つような技術も教科に取り入れ、また子どもたちが順応しやすいように遊戯も多く取り入れた。
 麹町時代には二葉幼稚園の土台が出来上がっており、家庭と児童にとって極めて重要な事業を全て開始している。親との連携(親の会、家庭訪問)、衛生指導および病児の治療、小学校入学促進(小学校との連絡)、家庭支援(親への住居提供)、自立のための預金指導、生活体験を豊かにする遠足などである。
 創立者は麹町に開設した直後から、更に貧民の多い四谷方面に移転したいと望んでいた。そこへ四百坪の御料地借用が許され、「貧民のすぐ隣、思うままに入園させられる喜び」を語っている。
 本園を建設し、風呂場も作り、百名以上入所できる建物を建設した。また園内のあちこちに花壇を配したのもフレーベル教育の一環であった。この頃の創立者の記述は、喜びと意気込みに満ち溢れている。
 鮫河橋は明治時代の東京の三大貧民窟の一つであった。鮫河橋に関する文献は数多くあり、横山源之助、その他の明治のルポライターも、鮫河橋の地域の悲惨さを記述しているが、創立者の記述からは、人間味あふれる人々の生活を感じさせられる。貧民幼稚園の内容は麹町時代の継続であるが、「時間からすると孤児院のようでもあり、よく遊ばせると言う点からすると幼稚園」とその性格を述べている。
 鮫河橋の建物には風呂場、治療室も設置し、親の会、卒園生の会の他、バザー、二葉文庫、日曜学校へと活動を広げて行った。親の会では子どもたちの弁当作り、禁酒など様々なテーマを取り上げ、著名な活動家を講師として招聘し、親への充実した働きかけを行った。
 その結果不況下で欠食児童が問題となっていた時も、二葉幼稚園児たちは弁当を持ってきていた。また子どもたちの小学校への就学援助も熱心に行い、15日(奉公日)は卒園生の会を開催し、小学校を卒業出来るよう励ましていた。子どもたちは小学校を卒業すると地域の工場労働者となることが出来、その結果不安定就労から抜け出し家族の経済もうるおうことになった。保育のみならず治療、バザー、などの地域活動は次第に「地域社会の向上」に幅広く実りとして確認できるようになっていた。
 ちなみに、この頃1910年(明治43)1月から園内で野口幽香がキリスト教集会を始めた。これが後年二葉独立教会となり現在の日本キリスト教団東中野教会に発展した。野口幽香が招聘した初代牧師由木康は、賛美歌「きよしこのよる」などの訳詞、パスカル研究などでも知られている。
 大正期に入り慈善事業から社会事業へと移行し、行政も社会事業としての保育所を制度化した。鮫河橋の二葉幼稚園では既に3歳以下の乳幼児を預かっていたことなど、幼稚園としての活動規模を上回る実績もあり、二葉保育園と名称を変更した。
 日露戦争、恐慌による貧民増大のなかで野口幽香、徳永恕は浅草の貧民窟を見学し、悲惨な状況に驚き、貧民窟のあるところには二葉保育園の分園を作ろうと決意した。
 内藤新宿南町(後の旭町)は、鮫河橋からさほど遠くない所にあり、木賃宿の地として指定された経緯から、当時新たな貧民窟となっていた。その土地に分園を開設し、徳永恕が主任となり事業を行った。
 開園と同時に直面したのは、浮浪少年問題であった。旭町地域には当時尋常小学校が無く、汎愛学園という私塾があったのみで、多くの少年が浮浪していた。中には保育園児をうらやみ、妨害したり盗みを働いたりした者があったので、二葉ではこうした児童を援助する必要を認識し、青少年活動を実施し始めた。汎愛学園が廃止となり、少年たちの就学を可能にするために小学部を設立し、授業をおこなったこともその現れである。
 明治末期より大正にかけて「青踏」を代表とする婦人運動が始まり、エレンケイの「児童の世紀」も紹介された。女性と児童の時代と言われたが、米騒動、恐慌と社会的な混乱も大きかった。乳幼児の死亡率の増加は、一般家庭の問題となった。慈善事業から社会事業へと移行する中で、本園、旭町分園の事業も図書部、裁縫部、夜間診療部、廉売部、五銭食堂と内容を拡張していった。
 本園では母の家を開設し、母子寮の先駆となった。これは従来から身の上相談にのったり、住居提供していた実績から生まれたものである。
 1923年(大正12)の関東大震災では旭町分園が焼失したが、人々の求めに応じ、再建されて、事業を再開した。関東大震災後は昭和恐慌により、欠食児童、浮浪少年、と社会問題は深刻化し、更に1930年(昭和5)伊豆大地震、1934年(昭和9)函館大火等の大きな災害に見舞われ、二葉は、東京連合婦人会の一員として救援活動を行った。1935年(昭和10)に創立者野口幽香から「二葉の大黒柱」と言われた後継者徳永恕に運営は任された。1936年(昭和11)に深川にも、母子寮、保育園を設立した。刻々と迫り来る大戦の前触れのなかでの設立であった。遂に1941年(昭和16)太平洋戦争勃発し、児童は強制疎開し、事業所の閉鎖が命じられた。終戦の年、東京大空襲で深川母子寮が焼失し犠牲者を出したことは、二葉関係者の悲涙を誘った。本園も一週間前の強制疎開により児童たちは難を逃れたが、建物は空襲により焼失した。
 戦災からまぬがれた、新宿旭町分園では、深川母の家の集団疎開から引き上げてきた罹災者の子ども10名を引取り、更に引揚者、浮浪者、戦災孤児などの援助にあたった。
 東京都は戦災者の緊急援護のため施設整備を促進し、資金助成を行った。二葉保育園もこの資金により調布上石原の工場跡の建物を買い取り、母子寮と養護部を開設した。児童福祉法制定には当時の母子問題懇話会の一員として徳永恕は大きな役割を果たした。
 1948年(昭和23)には児童福祉法により乳児院、養護部、母子寮、旭町保育園が認可をうけた。経営困難を極める中で、高松宮、三笠宮のご来臨あり、その後二葉保育園再建後援会が発足した。
 1950年(昭和25)南元町(元鮫河橋)に総合児童福祉施設として保育園、乳児院、母子寮、を建設。1951年(昭和26)には上石原分園焼失したが直ちに再建、その時母子寮は廃止したが養護部は残した。幽香庵の庭に養護部アフターケア一施設として青年寮増設した。
 1954年(昭和29)徳永恕は名誉都民の称号を受け、その祝会の席上二葉保育園後援会設立が話され、高松宮妃殿下が名誉顧問となられた。戦後は米軍の援助、基督教児童福祉会の援助により子ども達の生活はうるおった。上石原では大学セツルメント活動の援助などを受け、地域交流キャンプなどのが始められた。1963年(昭和38)には母の家が母子寮として公的制度として整備されたため、二葉保育園はその使命が終わったとして、母子寮の事業を廃止することとなった。その後は、保育園(ニヶ所)、乳児院、児童養護施設を運営し現在に至っている。
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